例によって個人的な妄想語りですよ!本気にしちゃだめですよ!
If death is a gift for human,
トールキン世界において、人間の死が恩寵である意味を特に強く感じ取れるのは、罪を犯してなお死ぬことを許されない存在によってだと思うのです。
私はそこにエレギオンのエルフのケレブリンボールとヌメノール最後の王アル=ファラゾーンという、中つ国の第二紀の物語を彩る二人の人物の存在を意識せずにいられません。
エルフにとって、死ねない事の怖さの一つは「一度間違ったら取り返しがつかない」事にあると思っています。
エルフにとっての原罪が、アルクウァロンデの同族殺害にあるのならば。それが購われるのは最後のノルドール王族であるケレブリンボールによってだったと思ってます。ケレブリンボールの生年は不明ですが、実母がフィナルフィンの元に残った事からヴァリノール生まれが確実である事、そして父と袂を分かち誓言から逃れた事との両方から考えるに、おそらく同族殺害の直前に生まれ、フェアノールの誓言に加わるにはまだ幼すぎたと推察されます。エルフの子供が物心つくのは早いですから、きっと本当に生まれたばかりだったのではないでしょうか。もしかしたら二本の木が枯れた後、二本の木の光も太陽と月の光も知らず、原初のエルフ達と同じく星々の光の中で生まれたのかもしれません。
エルダールの原罪と共に生まれたケレブリンボールがエルダールの二度目の堕落を先導し、その死によって贖罪が完了されると考えると、物語の構図としてきっと美しい。
自らの過ちに気付き死ぬまでのケレブリンボールは、後悔の念と罪悪感に苦しみ続けた事でしょう。それは彼個人にとっては辛い事かもしれないけれど、物語の登場人物としては幸福な事だと思うのです。罪を悔い、苦しんで苦しんで死に、肉体の死を経ても解放されない無限の責め苦に苛まれてこそ、彼の本質が善の存在であったと証明されると思うから。
彼は本来ならば、マイグリンのように闇の勢力に与し、人間によって(この場合おそらくヌメノール人によって)殺される運命を辿るのが自然であったのかもしれません。きっとその方が楽だったでしょう。でもそうはならなかった。実際にはケレブリンボールはサウロンの拷問によって苦しみ抜いて死に、遺体を凌辱される結末を迎えます。人間に殺されるのでなく、サウロンに殺された事は救いだった。その死に様が悲惨であればある程、彼が悪の存在ではなかった事が印象づけられるように思います。
UTにある"bearing as a banner Celebrimbor's body hung upon a pole, shot through with Orc-arrows"という描写。この記述はどうしてもキリストの磔刑を思い起こさせます。原罪を背負って死に、死後も苦しみ続ける者には最も相応しい姿ではないでしょうか。無限の苦しみの象徴。
人間の係累であるホビットのスメアゴルには一つの指輪の消滅と共に救いが訪れたけれど、ケレブリンボールにはそのような救いはないと思っています。マンドスの館でもけして解放される事なく無限の悔恨に苛まれると。一つの指輪が滅び平和な時代になっても、失われた命も数々の悲劇も元には戻らないのですから、その発端となったケレブリンボールの責任は重いと思うのです。
そして死ぬのを怖れ、不死の命を求めたアル=ファラゾーンが、この世の終わりまで世界の狭間に留め置かれる事となり死ねない運命となった事は何とも皮肉な罰だったと思っています。ある意味では彼に望み通りの運命を与えた皮肉。
人間にとっての恩寵が死であるのならば、その恩寵を取り上げられる事が最も重い罰なのでしょう。死ねないという事。解放されないという事。いつ来るとも知れぬこの世の終わりまで、です。
作劇上、アル=ファラゾーンはおそらくエレンディルと対になっています。当人は死なず、しかしヌメノールを滅ぼし後に何も残さなかったファラゾーンと。当人は死しても子孫や意思を継ぐ者によって後世に影響を与えたエレンディルと。命は受け継がれゆくものである事を考えると、死が恩寵である事を感じさせてくれるのでは。
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