The Hobbit: The Battle of the Five ArmiesのEEについて、ネタバレしているようなしていないような微妙な話。
結局のところ、映画ホビットの三作目については事前に私が思い描いていた予想はほぼ全て外れました。劇場版の時に散々語ったのでEEについては語るべきではないのかもしれないと思いつつ。
ホビットの冒険も指輪物語も、主人公は種族としての『人間』ではありません(シルマリルも大体においてはそう)。ホビットの冒険におけるドワーフやシルマリルにおけるエルフはいきいきと、我々とさして変わりないような愛憎や倫理観を持った内面豊かな存在として描かれています。しかしそれでもなおこのアルダの物語においてはヌメノール人やドゥネダインを含めても種族としての『人間』は、他の種族と異なる特別性をもって描かれているように思えます。
ドワーフだってエルフだって、間違う事もあれば欲に走りもする、卑近な描写はある。読者として感情移入はできる。でも種族としての『人間』の描かれ方はそれとはまた違う気がします。
何故でしょう。
そう、彼等は人間だから。神話の存在ではなく我々の現実に繋がる同一線上にある存在だから。
どうもアルダにおいて人間は思い迷い揺らぐ余地のある存在として描かれているように思います。作中では、第三紀末から見れば遠い過去であるヌメノールの人々でさえも、とても現実的な存在感を持って描かれているように思えます。
ドワーフもエルフも悩みはしても、自らの在り方そのものへの本質的疑問は覚えない。でも人間はそこに本質的な疑問を抱く。あらかじめ置かれた場所に疑問を持ち、変わろうとする意思。弱さでもあり強さでもあるように思える特徴。それは種族としての人間に顕著な特徴のように思えます。人間としての道を選んだ半エルフであるエルロスやアルウェンもきっと。
映画ホビットの冒険に登場するアルフリドというキャラクターは、まさにその人間の人間らしさを煮詰めたようなキャラクターだと思います。彼は小狡く、抜け目なく、でも憎めないキャラクターでした。
アルフリドは生き延びてエスガロスの次の統領になり、最後の袋小路屋敷の場面でバーリンがその事を皮肉交じりに語ると……そういう予想をしていました、私は。
人間は欲深くかっこ悪いし狡いところもある。だけどそういう逞しさこそが人間の強さなのだと。そういう特性を物語の帰着点として描くとしたら、ホビットの冒険を21世紀的に解釈した映画としては綺麗にまとまるのではないかと思いました。
元々、ホビットの冒険におけるエスガロスの町は指輪物語でのゴンドールやローハンと比べても現代的な貨幣経済社会の趣きがあります。代表者も世襲ではなく選挙によって選ばれます。現代的な価値観で映画を作るのなら、民主制であるエスガロスの特徴を生かすのではないかと。バルドという英雄的な人物だけでなく、より現実的な人間としてのエスガロスの新しい統領を描く事は、この物語においてドワーフやエルフとの対比としての種族『人間』を描く上で意味があると思ったのです。民主主義は完璧ではないけれどそれでもそこに人の力が表れていると思いますから。
自ら変わろうとする意思。それを成し遂げる力。必ずしも英雄的な人格者でなくてもいい。
過去も未来も変わらず王であり続ける、闇の森のスランドゥイル。貴種流離譚の主人公であり、英雄となり谷間の国を復興させるバルド。トーリン達の意思を受けて王位を継ぐ、エレボールの正当なる後継者であるダイン。これらの王様達に対比する存在としての民主制首長であるエスガロス統領は、より『人間的』な人物である必要があるのではないかと思いました。
原作では、エスガロスの新しい統領については全くの新キャラで最後に唐突にでてきます。そのためバルドが統領になったのかと勘違いする読者も多かったくらいです。映画として分かりやすくまとめる上でこれは説明不足になりかねない。そこを補完するためのアルフリドというオリジナルキャラクターなのかと思っていました。
生きて次の統領になるのでなければ、敢えてアルフリドというキャラクターを出した意味が薄いと思っていたのです。
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