映画"THE HOBBIT The Battle of the Five Armies"に向けての映像やインタビューを見て思った事をちょっと書いてみます。あくまで私見ですが。
ホビットの冒険の章タイトルは14章が『火と水』、15章が『雲がよりつどう時』、16章が『真夜中のとりひき』、17章が『雲がふきちる時』です。14章のタイトルの火と水とはスマウグの炎と湖の町の湖の水の事。真夜中のとりひきとはビルボがアーケン石を持って言った一件の事。では、雲とは?
14章はバルド率いる湖の町の人々とエルフ王の軍勢がはなれ山へ向けて旅立つ所で終わります。そして15章はビルボとドワーフ達の視点で始まり、バルド達がやってきて交渉が決裂し、最後にビルボがひとりごちる所までです。17章はその翌朝から始まり、アーケン石を質にした取引にトーリンが渋々ながらも了承し(しかし内心では納得せず)、ダイン軍が来て一触即発となり、ボルグ率いるゴブリン・ワーグ軍の襲来により五軍の戦いが始まり、鷲達が来てビルボが気絶するまでです。
17章において、雲に喩えられているのはコウモリ達です。しかし15章の章タイトルにもまた雲という言葉が使われています。
17章ラストでの「雲が風にちぎれて(The clouds were torn by the wind)」という一節は鷲達の到来の予兆ですが、その直前にビルボが考えていた事が何とも示唆的です。戦とは悲惨なものであり、こんな事になるくらいならあのスマウグが宝物を抱えて生きていた方がましだったと、そうビルボが考えた直後に鷲達が現れ、雲がちぎれたのです。鷲達が来ても戦いはすぐ終結せず、ビヨルンの到来を待たなければならなかったのですが。スマウグを倒すよりももっと大切な事があると、ビルボが考えた事にこそ意味があったのでは。
トーリンが"madness"に陥ったというのなら、バルドもまた同種の感情に侵食されていると思うのです。原作では、竜の呪いはけしてドゥリン王家に固有のものではなく、その場に立ちこめて去らないものです。15章最後でのビルボの台詞は明らかにそれを暗示していると思いますから。竜の呪いは死して後もそこに残り、人々の間の不和の『雲』として形を成すのです。
原作では、バルドが初めて登場するのは14章。「きびしい声音で暗いことを言う人」です。彼はスマウグの襲来に際して効率的に動き、伝承の英雄の如き台詞を持って竜を退治します。その後人々が口々にバルドを讃え王と呼ぶ中でも、バルドは冷静な態度を崩しません。
スマウグ襲来の一件について最初にドワーフ達の責任を口にしたのは、自らの不手際からの責任逃れをしようとした統領でした。作中では一貫して正しくない人として描写されている統領から出された意見です。スマウグの襲来についてドワーフ達のせいにした統領の言い分に対し、少なくとも当初バルドは批判的でした。ドワーフ達は真っ先に死んだに違いない、そのようなかわいそうな生き物をどうして責められるだろうか、とバルドは考えていました。しかしやがて彼の中に、はなれ山の財宝に関する考えが思い浮かぶのです。そして湖の町の人々の間にも、財宝についての噂が広まっていきます。つまりバルドや人々の間に財宝を求める気持ちが生まれたのは統領の台詞によってなのです。また、宝物目当てにはなれ山へと旅立った時点ではバルド達はドワーフ達の生存について知らない点にも注意です。
16章や17章はじめのバルドの台詞を読んでみると、その好戦的な事に驚きます。武力行使を急ぐバルドをエルフ王は止めます。このやり取りはバルドが無謬の英雄であったなら有り得ないと思うんですよね。バルドとトーリンは強いて言うならばアラゴルンとボロミアではなくデネソールとセオデンだと思います。エオメルとエオウィンを目の前で失うセオデンがトーリンなら、生きて統治者の責任を背負っていくデネソールがバルド。まぁ逆でもいいんですが。どっちにしろ終盤の展開におけるバルドは王座を待つ英雄ではなく既に権力の座に上り力を行使する権力者だと思います。16章は人間とドワーフ、それぞれのエゴのぶつかりあいだと思いますよ。だから戦いを避けようと奔走するガンダルフやビルボがいると。
シルマリルにおけるドリアスの同族殺害の方がもっと近いかもしれませんね。運よくオークが襲来してくれて同族殺しの泥仕合を避けられたドリアスと考えると、ホビット終盤におけるボルグの存在の得難さが分かります。
五軍の戦いに至るこの辺りの展開には無謬の英雄も絶対悪の権化も存在しない。そう思っています。だからこそ共通の敵の前に共闘する為のボルグの存在が必要だったのかと。
私は雲とは人々(この場合人間・エルフ連合軍とドワーフ)の間の不和そのものだったと思います。
(今凄い事に気付きました。バルドがトーリンに最初に要求したのは12分の1、最終的に手に入ったのは14分の1…! いや、とっくに散々語られた話題なのかもしれませんが。今更何を言ってるんだって感じですが。単にそこまで細かい事を気にして書いていなかっただけの可能性もありますが、でも面白いですこの食い違いは)
バルドをアラゴルンに重ねて見る人達が多いようです。でもよく考えてみれば、そのアラゴルン自体、白兵戦で特に目立った活躍をした訳ではありません。サウロンを倒した最大の功労者はフロドとゴクリとサムですし、アングマールの魔王を倒したのはエオウィンとメリーです。死者の軍勢を連れて来た件くらいですが、それだって戦ったのは死者軍団ですし。アラゴルンの真の功績は長年に渡る地道な活動と、人々をまとめ上げる求心力にありました。
トーリン・オーケンシールドもまた、白兵戦でこれと言って目立った活躍をした訳ではありません。アゾグを倒したのはダインですしスマウグを倒したのはバルド、ボルグを倒すのはビヨルンです。そのトーリンに仮に、物語の中で重要な役割を負わせるとしたら、五軍の戦いの中でトーリン達一行が躍り出たあの場面の扱いですね。原作ではボルグ達ゴブリン軍が来襲してすぐにガンダルフの鶴の一声で睨み合いは収束し、対ゴブリン軍でエルフ人間ドワーフ連合軍が組まれる訳ですが、そこの流れが変わったらいいなーと。ボルグが来てもドワーフ軍とそれ以外でスムーズに共闘が実現せずそれぞれ自らの陣営を守るにとどまっていた所を、トーリンの「わしにつづけ!」の一声で変わるのではないかと。同族のみならずエルフや人間にも呼びかけたトーリンの声で、です。原作のダインは必要があればエルフや人間と即座に共闘できる柔軟なキャラクターですが、映画はもう少し頑固なようですから。トーリンを守る為にダイン軍は当然馳せ参じ、人間やエルフもそれに続く。その場の自由の民の心が自然と一つになる。そうなれば、人間の英雄に過ぎないバルドを超えて、全ての種族を一つに束ねる英雄としてのトーリンの存在が一際輝くのではないかと思うのです。
LotRにおいても作中直接的に指輪棄却作戦に参加したドワーフはギムリ一人であり、ドワーフ族の本格的な参戦は画面の外、北の地での事でした。エルフ・人間・ドワーフの対等な連合軍というのは六部作のラストに相応しい意義のある戦いだと思うのですよ。
まぁ上記はトーリン贔屓の私だから望む事であって、現実的に考えたら望み薄ですよね、うん分かってる。
映画の公開に先立って発表されたサントラの曲名の中に"Courage and Wisdom"という曲があるようですが、これは原作でトーリンがビルボに向けた最期の言葉の一部です。という事は、あの台詞は原作の通りだと思っていいでしょう。
私は、原作ではビルボにもトーリンにもそれぞれ非があり、お互いにそれを悔いて赦しあったやり取りだと思っていますが、同じ見方をしている人を他に見た事がありませんし。トーリンもビルボの素晴らしさに感銘を受けて遜った!という方が一般的な見方なんですかねー。
ですからトーリンが単純に間違っていて、改心してビルボに謝りその素晴らしさを讃えて終わる……そういう筋書きの方が確かに分かりやすいですし、大勢に支持されるとは思います。原作を読んで尚、そういう話だと思っている人の方が多いようですし。主人公はビルボであり一般的にはエルフや人間族が人気である以上覚悟はしておきます。その方が万一予想が外れた場合に喜べますし。
あくまで映画はPJの映画ですし、大いに楽しませてもらっている身であれこれ言うのも何ですが。ちょっと思った事を書いてみました。
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